山鹿城

ここからは、家系図とは直接関係のないコーナーです。興味のある方のみお立ち寄り下さい!

ここでは、家系調査の途中に立ち寄った各地の「城址」のことについて、少しづつ写真とともに書き込んでいきたいと思います。
家系調査の対象地の関係上、どうしても北部九州・山口中心に展開してしまいますが、ちょっとだけでも立ち寄って頂けたら嬉しいです。


「山鹿城」(福岡県遠賀郡芦屋町山鹿)
山鹿氏の居城

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山鹿城は、天慶年間(938〜947)に鎮西奉行となった俵藤太秀郷の弟藤原藤次によって築城されたとされる歴史の古い城です。この藤次は山鹿氏を名乗り、以後山鹿氏の居城となりました。

寿永2年(1183)、時の城主山鹿兵藤次秀遠は、源氏に大宰府をも追われた安徳天皇や平家一門をこの山鹿城に迎えました。

壇の浦では、強力な山鹿水軍が平氏の戦力の主力となって戦いましたが、敗れた平氏と運命をともにし、領地も城も没収され滅亡してしまいました。

滅亡した山鹿氏に替わり関東の有力御家人である宇都宮左衛門尉家政が山鹿城を居城とし、山鹿姓を名乗りました。その後、麻生と姓を改めました。これが山鹿麻生氏の起こりです。

以後、山鹿麻生氏の本城として栄え、天正年間(1573〜92)に秀吉の命により筑後(福岡県南部)に国替えとなり、廃城となりました。

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(現在の二の丸跡)
現在の城址は、このような城山公園となっています。

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(本丸から玄界灘を望む)
昔は玄海灘に接し、「海賊城」との異名を取るように、いつでも波荒い海に出撃できるようになっていました。(曇り空で肝心の海が見えませんが・・・)



豊前岳城(古賀城)

「豊前岳城」(福岡県遠賀郡水巻町古賀)
麻生氏の端城
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標高70.1メートルの豊前坊山(豊前岳・古賀岳・城山・豊前望山ともいう)の山頂が城址です。古賀城ともいいます。

壇ノ浦の戦いで平家方海軍の中心戦力となった山鹿秀遠山鹿城の端城として築かれ、後に麻生氏の端城となりました。

この城山を舞台に麻生氏宗像氏との間で度々合戦が繰り広げられています。

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70メートルと比較的低い山城ではありますが、以前は北部九州一の大河である遠賀川が麓まで流れており、見た目以上に難攻の城であったようです。


猫城

「猫城」(福岡県中間市上底井野)
宗像氏の出城
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高さ約20メートルの岩の台地上にあります。現在は、月瀬八幡宮の社地となっています。
本丸、二の丸の二段になっていて、本丸跡は月瀬八幡の本殿が建っています。
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二の丸跡は、南に1メートル下がったところにあり、上の写真のように「猫城」と彫られた巨大な石碑が置かれています。

北から東には水濠跡があり、西側には小川が流れ、且つ周囲は沼田となっていて、高さは低いけども要害の地だったようです。

この城は、代々麻生氏の出城でしたが、天正6年(1578)近くを流れる遠賀川を境にして、東側を麻生氏、西側を宗像氏とされ、西側に位置する猫城は以後宗像氏の出城となり、宗像氏の家臣吉田倫行という武将が雑兵150余名で守備に就いていました。

天正年間、宗像氏の滅亡とともにこの猫城は廃城とされました。

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(現在はこのように「月瀬八幡宮」となっています)

黒崎城

「黒崎城」(北九州市八幡西区)
筑前六端城のひとつ

黒崎井筒屋(昔は黒崎そごうでした)の北側に城山(道伯山)と呼ばれる小高い山があります。
ここが、福岡藩六端城の一つ、黒崎城のあった山です。築城した井上周防之房(道伯)の名を取り、道伯山とも呼ばれています。

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この城は、慶長5年(1600)の関が原の戦いの功で、筑前52万石に入部した黒田長政の武将「井上周防之房」によって築城されました。

しかし、元和元年(1615)の「一国一城令」により、わずか10数年で破却された”幻の城”です。

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「本丸跡に建てられた黒崎城址の石碑」


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頂上はこのように自然公園になっています。


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ところどころに残る石垣の跡


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本丸跡から見下ろす。洞海湾やそれを取り巻く工場群が見えます。この日は、ちょっと曇っていたので、写真映りがよくないですね。

松山城

「松山城」(福岡県京都郡苅田町松山)
北九州最古の山城

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JR日豊本線苅田駅の北東約2kmにある標高128mの山城です。
国道10号線から、今年(2006年)3月16日に開港した「新北九州空港」に行く最後の直線道路の右手に見える小山です。

かつては周防灘に臨み、急斜面に囲まれた難攻の山城でしたが、現在では、周囲を埋め立てられてその面影はありません。さらに、東側・北側は砕石のために削られて、醜い姿となってしまっています。

この城は、天平12年(740)、太宰権師藤原広嗣の築城に始まります。

室町期には、九州進出を窺う中国の大内氏、後に毛利氏と北九州の覇者大友氏との争乱の場となりました。

慶長5年(1600)、関が原の功により豊前国は細川氏の領地となり、同11年(1606)、長い歴史を誇った松山城も廃城となってしまいます。



蔦岳城(赤間山城)

「蔦岳城」(福岡県宗像市陸厳寺)
宗像大宮司家の本城

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福岡教育大学が裾野に広がる蔦岳(通称城山、標高369M)の山頂に城跡があります。

この城の歴史は古く、宗像氏6代妙忠の時に築城されましたが、一時廃城されていました。

南北朝に入り、54代氏俊が応安3年(1370)修築し入城しています。
その後、79代氏貞が、この城が要害の地であることに注目し、大規模に築城。本城を白山城から移しました。時に、永禄4年(1561)のことです。

この氏貞の頃は、毛利氏と大友氏の2大勢力が北九州の勢力争いをしていましたが、宗像氏は毛利氏に味方し、大友の軍勢をこの城で迎え撃ち熾烈な戦いを演じ、和睦に持ち込みました。

その氏貞も、天正14年4月2日に病死。79代続いた名門宗像氏も、氏貞を最後に断絶してしまいました。


岡城

「岡城」(福岡県遠賀郡岡垣町吉木)
麻生隆守の居城

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岡城といっても、荒城の月で有名な大分県竹田市の岡城とは違います。
私が住む岡垣町で唯一、中世城郭の跡をとどめるもので、JR海老津駅の北約2kmほどの通称城山と呼ばれる標高40mの小高い丘が城跡です。

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山というより丘というべき高さですが、本丸がある頂上まではちょっとした登山(?)であり、運動不足の体には結構厳しい山道です。

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5分程度歩くと、三の丸と書かれた標識が見えてきますが、どう見ても周囲は山道にしか思えません。

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さらに登っていくと、二の丸の標識があります。
東西14m、南北22mほどの平地ですが、写真のようにこの二の丸外縁をぐるりと囲むように、数多くの石仏が並んでおります。

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さらに3mほど登ったところが本丸跡です。
東西15m、南北30mほどの平地に古い祠があり、良く見ると「寛政・・・」という文字が読めますので、18世紀末に作成されたものなのでしょう。

なお、この岡城についての由来の詳細については、登山道入り口に案内板が設置されていましたので、わざわざ書きません。
これをクリックしてください。
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