由布院の立川氏

大分県の由布院といえば今や全国区の観光地となっていますが、ここは「立川」姓の密度がとても高い街なのです。

そして、由布院にある神社の多くが「立川」姓の宮司さんなのです。

この街の代表的な神社といえば「六所宮」ですが、こちらの案内文に・・・

「正式名称は宇奈岐日女神社で国常立の尊や景行天皇などを祭る。祭主は代々立川、木綿姓を名乗り連綿として七十六代にいたる」とあります。

七十六代というのは、出雲神社に次ぐ程に古いものです。
普通に考えて、初代となると千数百年前ということになるけど・・・?

その答えが大分県立図書館蔵書の「宇奈岐日女神社由来」という書籍にありました。
その巻末に「木綿姓立川氏系図」というものがあります。

その系図によると、12代景行天皇が熊襲征伐のために日向国に仮宮を置いた時、現地の豪族の娘である御刀媛 ( みはかしひめ )に生ませた子「豊国別皇子」(とよくにわけのみこ)が立川氏の祖であるとなっています。

豊国別皇子の子である「八川王」が宇奈岐日女神社の祭主として、由布院の八川邑立川に造館し、その子「川分」という人が初めて「立川」氏を称するとあります。

その後、現在に至るまでの千数百年間もの長期に亘って、代々立川氏が宇奈岐日女神社の宮司を務めてきたということです。

また、その分家筋が周辺の神社(若宮八幡宮・石武神社などなど)の宮司になったり、大友氏に仕えて武士となったりして、現在多くの”立川さん”が住んでおられるというわけです。

家紋(神紋)は、出雲大社と同じ「二重亀甲に剣花菱」です。
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由布院に限らず、大分県の立川さん! あなたの家はどうですか?

豊前小倉藩士日記

巻物の作成をご依頼頂いた方から、幕末時のご先祖の日記を見せて頂きました。これです↓

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天保3年(1832)生まれの豊前小倉藩士の日記なのですが、幕末の小倉藩といえば、第2次長州征伐の”小倉口”の幕府軍の先鋒として戦い、最終的には孤軍となり、自ら小倉城を焼いて敗北するという悲劇を生んだところでもあります。

いわゆる「小倉戦争」と呼ばれるものですが、この日記の主人公である志津野宗遠は、殿様の近習であり、殿様が肥後熊本藩領まで落ち延びるに際しそれに同行し、その後再度戦列に復帰。

さらに、小倉占領後の豊前藩時代の様子など、激動期の小倉藩について非常に細かに書き留められております。

前々から「小倉戦争」について興味を持っていた私にとっては、実に貴重なものであり、ご本人にお願いして全頁コピーさせて頂きました。

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このような読みにくい字体のものですし、かなりの文量ですので、まずはしっかりまとめて、これを基にして敗北した側の「小倉戦争」を書いてみたいと思っています。

このような仕事をしていますと、時々ご本人だけが持っていて世に出ていない書物に巡り合うことがあります。嬉しいことです。


「番屋敷」と「番地」の違い

以下の話は、実際に古い除籍謄本を請求されたことがあるという方しか分かりにくいことかも知れません。

通常の除籍謄本には、◇◇村〇〇番地という表示がなされていますが、古い除籍謄本をみると、たまに◇◇村〇〇番屋敷(または番戸・番邸)と表示されたものを見ることがあります。

実は、私もかつてはこの番屋敷(番戸・番邸)と番地を同じものだと考えていたことがありますが、多くの方が同様に同じものと考えているようです。

例えば、田中村180番屋敷(番戸・番邸)と表示されていれば、今の180番地の古い表現だろうと思っている方はいませんか?

結論からいうと、番屋敷(番戸・番邸)と番地は違う概念なのです。

最近、ある地域の大正時代に役場が作成した番屋敷と番地の対照表のようなものを見る機会がありましたが、
37番屋敷→774番地、41番屋敷→776番地
というように、全く違うのです。

もし、古い除籍謄本を取り寄せて番屋敷(番戸・番邸)と書かれたものを持っておられる方がおられたら、実際の番地を役所などに照会してみましょう。(教えてくれるとは限りませんが・・・)

浅井長政の子孫

歴史の上では滅亡したといわれる一族の中には、実はその末裔が地方のどこかで続いているということがあります。

大分県の国東半島には、織田信長に滅ぼされた浅井長政の末裔という方の家があります。

浅井長政といえば近江の戦国大名で、旧恩ある朝倉家討伐を目指す信長に敵対したことから滅亡の道を辿っていくわけなのですが、浅井氏の居城小谷城の落城に際し、妻であり信長の妹でもあるお市の方と三人の娘(茶々・初・江)だけが助けられ、嫡子の万福丸は処刑。かくして浅井氏は滅亡したとされています。

ところが、長政にはもう一人男子万菊丸がおり、生後3ヶ月の赤ん坊だった万菊丸は幸いにも織田方に気づかれることなく、長浜の福田寺で養育され、その後九州に下り、豊後国東の俣間村に土着したとあります。

その後裔の藤左衛門が元禄年間に杵築藩松平氏に召抱えられ、以後代々杵築藩士として続き、現在でもそのご子孫の方が住んでおられます。

このような滅亡したとされる一族の末裔が生き残って住んでいたという話はあちらこちらにあります。
私はこのような話がとても好きで、家系調査の一環でその地域のことを調べている時にこのような話に出くわすと非常に嬉しくなります。

言い伝え

あなたの家には言い伝えはありませんか?

お父さん・お母さんやおじいさん・おばあさんなどから「うちの家は〜だったんだよ」とか「うちのご先祖様は〇〇〇をしていたんだよ」などなどといったお話を聞いて育った方も多いことと思います。

当社の調査依頼の申込書には、このような言い伝えを記入して頂く欄を設けております。調査を始めるに当たって、予め依頼者の方からその家に伝わっている話を伺っておくことはとても重要なことなのです。

しかし反面、この言い伝えほど厄介なこともありません。

厄介の第一は、各家に伝わっている話には間違いや誇張されたことが多いことです。

やはり人情として、親は我が子に少しでも良い話をしたいものなのでしょうか。それが代々伝わっていく内に、事実と較べてかなり大きな話になっていることが多いのです。

伝言ゲームでも5人くらい伝えている間に、かなり違った内容になってしまいますよね。
家の言い伝えも、世代を超えた伝言ゲームなのかも知れません。

依頼者のご家族が、長い間「我が家は代々武士の家柄で・・・」と信じておられたのが、調査の結果一般の農民の方だったというようなことがしばしば起こります。

別に、ご先祖が武士であろうが農民であろうが、ご先祖の存在のありがたさには何の違いもありはしないのですが、ただ、長い間信じていたものが違っていたという事実を知ったことにショックを受ける方も多いのです。

せっかく苦労して調査をしたものを報告する際に、目の前でショックを受けておられる姿に直面すると、調査を完了させた充実感が消滅してしまいます。

親から聞いた言い伝えを疑えということではないのですが、ちょっと客観的に考えてみるということも必要なのかも知れません。

・・・という私自身、子供の頃から父より福岡黒田藩の武士だったと聞かされていて、22歳の頃まで信じていたのですが・・・

兵役養子

自分の家は、明治の初期に苗字が変わったらしい・・・という話を時々聞くことがあります。

その理由のひとつが「兵役養子」、つまり徴兵逃れのために絶家や廃家を再興して戸主となっているのです。

明治政府が布いた徴兵令というものは、武士だけが戦をするものという江戸期までの”常識”を覆すもので、農・工・商の人々は、徴兵逃れにやっきになっていました。

ちなみに、当初の徴兵の免除規定を記すと・・・

@身の丈五尺壱寸に満たぬ者
A病身及び不具にして兵役勤り兼ねる者
B海陸軍生徒となり兵学寮にある者
C文部・工部・開拓其他之公塾に学びたる専門生徒、及び洋行の者にて医術・馬医術を学ぶ者、但教官の証書ある者
D家の主人たる者
E嗣子並承祖の孫
F独子独孫
G罪科あるもの、但徒巳上の刑を蒙る者
H父兄存在すれども病気若くは事故ありて、父兄に代わり家を治める者
I養子、但約束而己に而実家にある者は此例にあらず
J徴兵在勤中の兄弟たる者
K徴兵検査ある前に徴兵所の各区々に布達すれば其節兼而書上置所之人物を召連出すべし
L検査呼出しの時に父母之喪に逢ふ三七日を過ぎざるか、或は父母の重病及び一家の安危の係り一時止むを得ざる事故出来のものは、夫々詳細書に戸長之証印をして願出し候ものは翌年の徴兵に廻すべし
M寄留する者の子弟及び厄介たる者は、現今寄留する所の兵籍に入べし
N本年徴兵に当り自己の便宜の由り、代人料金弐百七拾円上納願出る者は、七年の兵役を除すべし、免役上納金は本県へ差出すべし

これらを要約すると、明治新政府の担い手となる官吏、陸海軍生徒・官公立専門学校生徒・洋行修行中の者の他、税金を納める「家」の責任者である戸主及びその継嗣、そして代人料として270円を納め得る金持ちの家も兵役を免除されていたことになります。

こうなると、徴兵を受けざるを得ない者は、代人料を払える資力のない一般家庭の次男・三男・・ということになります。

ここに、いわゆる「徴兵逃れ」のために養子縁組をしたり、分家や他家に入籍したり、あるいは絶家や廃家を再興して戸主となるというような戸籍上のやりくりが頻繁になされたというわけです。


島原の素麺

江戸初期の一大事件である島原の乱では、最終的に幕府軍の攻撃とその後の処刑によって老若男女3万7千人が死亡したといわれています。(生き残ったのは内通者であった南蛮絵師山田右衛門作一人でありました)

乱後、島原半島、特に半島南部は文字通り空っぽのような状況に陥りました。”米”が経済の基礎であった当時、領内から農民が居なくなってしまえば領国経営そのものが成り立ちません。

そこで、幕府は主に九州諸藩に対し、禄高一万石について農家一戸を差し出せという命令を出していました。また、直轄地である天領の諸代官に対しても同様の措置を取っています。ここに、農民の大移動が起こったのです。

そのため、今日の島原半島内の苗字は、遠い先祖が移住前に住んでいた在所の名前であることが多いのです。

瀬戸内海の小豆島は、当時天領でしたが、ここでも約20戸の島民が移住してきました。島原の名物のひとつに素麺がありますが、これは彼らが移住とともにもたらしたものと伝えられているのです。

墓石をもっと見てみよう

お墓参りを欠かさない方でも、結構自分の家の墓誌などに関心を払っていないことが多いようです。

当社に家系調査をご依頼頂く方は、「自力で調査をしてみたのですが、これ以上先に進まない・・」という方が多いのです。(といっても、ほとんどの方が除籍謄本を取っただけという段階ですが)

調査を依頼された場合、まずお墓に行かせて頂きます。
実は、お墓から得られる情報だけで当社の設定する「基本調査」程度のことが判明することも多いのです。

このような場合、簡単過ぎて規定の料金を頂くのが心苦しくて、辞退させて頂くこともあります。

墓石には、除籍謄本に記載されている事項以上の情報が多く残されているのに、日常過ぎて詳しく見ていないのですね。もったいない話です。

お墓参りに行かれる時、ちょっと詳しく見てみませんか?

これも個人情報?

九州内のある旧藩の活字化された分限帳を調べていたところ、どうも全ての藩士が記載されていないように思えたので聞いてみると、禄高の低い藩士はマイクロフィルムに収められているとのこと。

早速、そのマイクロフィルムの閲覧を申し出たところ、個人情報の関係でそれに記録されてる藩士の直系の子孫の者以外の閲覧は許可出来ないという。

この分限帳は、文化年間(1804〜1817)のものですが、そこに記録されている人と直系であることを証明すること自体、一般的に困難だと思います。除籍謄本だけでは無理ですから。

私の場合は、依頼を受けて調べているわけですから、そもそも閲覧自体が無理なわけです。

依頼された方は長野県の方ですので、まさか九州まで見に来てくれとも言えないですし・・・実に困ったものです。

でも、約200年前の分限帳の記載内容までもが個人情報?? ちょっと行き過ぎのように思われます。この情報を公開することによって、どのような立場の方がどのような不利益を被るというのか? 私の想像力が貧困なのか、よく理解できません。

各企業からのDMやセールスの電話や迷惑メールなどは絶たないが、一方ではやたらと厳しい保護の対応・・どうも、”個人情報”について、まだまだ社会自体が十分消化しきれていないようですね。

家系調査もますますやりにくくなりそうです。

過去帳の誤り

家庭でお持ちの過去帳と墓石に彫られている情報が異なるという事例を多く見かけます。没年月日や享年・続柄だけでなく、名前の文字が異なっているという場合も少なくありません。

この場合、墓石の情報を信じます。

家庭にある過去帳の場合、その家のどなたかの代の方が菩提寺の過去帳を書き写したか、ご住職さんが書き写してくれたものかということになるかと思います。ただ、人がすることですから、写し間違いも起こるのです。

しかし、墓石の場合は、その人が亡くなってから間もない時期に建立されるものですし、石に文字を彫るわけですから、十分な注意を払ってなされます。そこに間違いが生ずる可能性は極めて小さいことでしょう。

ただ、多くの方は、ご自分の家にある過去帳に間違いがあるなどとは思っておりません。そこで、墓石の写真を撮ってきて、一つ一つ指摘して書き直してもらっています。

まあ、それ以前に、そこまでしげしげと過去帳を見たという人はいないでしょうから、間違いに気づいていないのですが。


番屋敷(番戸)の特定の仕方

古い除籍謄本では、本籍地を番地で表わさずに番屋敷(または番戸)で表わしていることがあります。この番屋敷と番地とは全く違うものですから、番屋敷では現在の場所が分かりません・・・以前にこのように書きましたら、番屋敷が現在の何番地に当たるのかをどうやって調べたらよいのか?・・・という質問のメールが多くありました。

残念ながら、その答えを私は知りません。
一定の方法などないのではないかと思っています。

ただし、このような場合、私は以下のことを行っています。参考になるようでしたら一読ください。

@市町村の市民課(またはそれに相当する係)の窓口に直接聞いてみる。
これは、まず第一にやっていることです。これまでの経験からすると、比較的小さな市町村だと教えてくれる可能性は高いようです。

Aある程度地域が絞れているなら、法務局にある旧土地台帳の該当地区のものを一番地から地道に調べていきます。そこに書かれている所有者欄に当時のご先祖の名前を見つけ出すことで、番地を特定するというやり方です。
実に時間が掛かることですし、本当に地道な作業です。

B昔から住民の移動があまり無いような地域の場合で、ある程度の地区が絞れていたら、ご老人の方々から聞き込みをします。このような場合、昔の番屋敷を憶えている場合も少なくありません。

以上の3つを単独または、組み合わせて調べています。
また、個別に郷土史家の方や教育委員会の方から、番屋敷と番地の対照表(税務署が作ったもの)を頂いたこともあります。

専門家信仰

日本人には専門家を無批判で信じる傾向があると何かの本で読んだことがありますが、家系調査の仕事をしていますと、なるほどなと思うことが多くあります。

笑い話のようですが、このような話がありました。

「ご先祖様は、どのような性格だったのですか?」
「芸能人でいうと、誰に似ていましたか?」
「喧嘩が強かったと聞いていますが、本当でしたか?」

江戸時代のご先祖の話です。

いくら家系調査を専門にしているといっても、こんなことが分かるはずがありません。
歴史に名を残したような人物であれば、どのような性格であったかを書いている文書もあるでしょう。場合によれば、顔形がどのようだったと書かれたものがあったかも知れません。

しかし、江戸時代の一般庶民の場合にこのようなことが残されているはずがありません。常識で分かりそうなものですが、これに似た質問を受けたことが複数あります。

「専門家なのだから分かるのかと思っていました」と怒り口調で言われたこともあり、非常に不愉快な思いをしたものです。

比較的若い女性に多いものですから、同じような年代の方からお話があると、ついつい警戒してしまいます。

旧庄屋家の墓地の発掘

地元の旧庄屋家の墓地を建て直すための発掘調査に立ち会う機会が持てました。

現在、大きな墓が一基と幕末〜明治初期の墓が6基ありましたが、これらをまとめてより大きな墓を建てる工事なのですが、基礎造りのためにショベルで地中を掘り返していると、なんと24基もの古い墓石が出てきたのです。

長い間地中に埋まっていたため、墓石に彫られた文字もあまり風化しておらず、かなり明確に読むことができました。過去帳と比べながらそれらの墓石群を時代順に並べてみますと、かなり壮観な眺めです。

最も古い墓石が元禄12年(1699)のもの。
本来、今のような墓石を建てていたのは、支配者層や豪農たちだけでした。
それが庶民に広がってくるのは、経済が最も繁栄し庶民も豊かになった元禄期前後からとされています。この家の墓もその時代から始っているということですね。

墓を建て直す時、菩提寺の住職さんに来てもらって魂抜きをしてもらい、古い墓石を地中に埋めることが多いと書物の上では読んだことがありますが、実際に目の当たりにしたのは今回が初めてでして、かなり興奮させて頂きました。

奇兵隊は庶民兵??

文久3年(1863)に高杉晋作により設立された奇兵隊は、庶民軍であるということで画期的とされてきましたが、どうも武士の数が意外に多かったようです。

というのは、「奇兵隊名鑑」という書籍によれば、内訳がわかる641名中、武士階級出身者が全体の49.6%(うち直参32.1%、陪臣41.8%、扶養者22.6%)を占めていることが分かるのです。その他、農民40.3%、町人5%、寺社関係5.1%という構成となっています。

ほぼ半数が武士階級ということになります。

土葬と火葬

墓の建て直しなどで昔の墓を掘り返したりすると、保存状態がよい場合など、かなり原型を保ったご先祖がお姿を現わしたりします。江戸時代は、浄土真宗を除いて、土葬が一般的だったからですね。(江戸などの大都会では火葬の習慣もあったようですが)

現在、わが国では、人が亡くなると火葬にするのが当たり前になっていますが、わが国の火葬化率を、厚生省統計でみると

大正13年(1924) 42.16%
昭和22年(1947) 53.91%
同 30年(1955) 57.39%
同 40年(1965) 71.83%
同 53年(1978) 89.47%

となっています。

火葬が初めて土葬を上回ったのは、昭和8年(1933)で、それから敗戦をはさんで、20年間以上50%台で推移していたのに、池田内閣の所得倍増政策が進むと、普及のテンポが急に上がっていきます。現在では99%となっています。

ちなみに、世界の主な国の火葬率を挙げますと、中国46%・韓国34%・アメリカ25%・フランス17%・イタリア5%・・イスラム教国ほぼ0%など。日本は世界で最も火葬率が高いのです。(小畠宏允監修・編著「日本人のお墓」より)


女の子の名前

一般の家の女の子の名前に「子」の字を付けても構わなくなったのは、明治になってからで、それまでは武士以上の家の娘でなければ付けられませんでした。

もともと、「子」は内親王と公卿や大臣など三公だけに許されたものでした。
鎌倉時代になって、源頼朝の妻政子などが現れ、その後は武士の娘にも「子」を付けるようになりました。

地方などでは、明治20年頃までに生まれた女の子には、「子」の字が付けられていないことが多かったようです。この頃の除籍謄本を見ても、だいたいカタカナ2文字の名前が付けられていると思います。

ある地域の調査で、女の子に「子」を付ける習慣がどのように広まったかという統計があり、明治30年で17%、大正5年で50%、昭和初期で80%という数字が残されています。

昭和の初め頃には、大多数の女の子に「子」が付けられれようになったのですが、現在は、逆に「子」を付ける親が少数派になってきたようですね。時代は変わっていくものです。

古文書解読

あまり積極的には行っていませんが、古文書の解読を依頼されることもあります。

藩資料や村方資料などの「後世に残す」ことを視野に入れて書かれているものは、程度の差はありますが、比較的解読が容易です。崩しが強い文字であっても、一定のルールに則って書かれているからです。

反対に、一個人が自身の記録として書かれた文書というのは、解読が難しく、頭を悩ませられることが少なくありません。後世の人が読むだろうという意識が無いか又は希薄なため、一定のルールに則って書かれていないことが多いのです。

現在、解読を手掛けているのは、安政年間〜明治初年に東北のある藩の藩士が書いた私記録で、非常に癖が強い文字で誤字も多い。また、その地域の固有名詞が随所に見受けられるので、当時のその藩に関する資料を取り寄せて読むことから始めています。

私記録の古文書解読というのは、ある意味格闘だと思ってしまいます。

横に広げ過ぎないように!

私のところに家系調査を依頼頂く方は、自分でかなり努力された結果、これ以上進まないということでこられる方が多いのが特徴です。

このような場合、どの程度進めておられるかというと、大抵が除籍謄本の域を超えてはいません。ほとんどの方が縦にではなく、横に広がった自作の系図を持って来られるのです。

つまり、傍系ばかりがどんどん広がり、古い時代の直系尊属を調べることが全く出来ていないということです。

なぜこのようになるかというと、親戚や同姓の家などを訪問して、あれこれと聞いて廻るということばかりやっているからなのですね。

親戚のところに、たまたま古い系図があって、その中で除籍謄本で分かった自分のご先祖様と繋がることが分かったりすることがあればよいのですが、そうでなければ、自分のところと関係あるのかどうか分からない昔の人の名前が増えていくという状況になります。

もちろん、親戚や同地域の同姓の方に教えを請うことも大事なことですが、まずが地元の大きな図書館や古文書館などの資料に当たってみるなど、多方面からのアプローチが重要だと思います。

拾い子

豊臣秀吉は、淀殿との間にできた子秀頼をお拾いまたは拾丸と名づけたというのは有名な話ですが、乳幼児の死亡率が高かった時代には捨て子は育つという迷信があり、そのために実際に生まれた子を形の上だけ捨てて、他の者に拾ってもらうということが広く行われていました。

子供が丈夫に育たない家では、健康に育っている家の人に拾ってもらい、丈夫に育つことを祈ったものです。

例えば、三人も子供を亡くした家では、四人目の子が生まれて一週間後に辻に捨て、丈夫に子供を育てた人に頼んで拾ってもらい二、三日で連れて戻るのです。

拾い親とは親子関係を結んで大事にしたようです。
拾い親のことを「在所」といい、末世まで親類付き合いをしたという話も多く聞かれます。

家の存続が今以上に重要な意味を持っていた時代ですので、後継を授かったという意味から大いに感謝をしたものです。

古い墓を探す

「古い墓を探すことだけを依頼出来ないだろうか?」
という問い合わせがしばしばあります。

家系調査そのものではなく、本家の墓だけを探して欲しいというものです。
そのようなことはやっていないので、丁重にお断りするのですが、そのような方に限って非常に熱心な方が多く、お断りするととても落胆されるので、結構心が痛みます。

墓を探したいという方は、先祖供養をしたいという動機がほとんどで、且つ墓のあると思われる場所から遠いところに住んでいる場合が大半ですので、物理的に難しという面もあるのでしょう。

もちろん、私も家系調査の手段のひとつとして、本家などの古い墓を探すことはやっているのですが、それだけが目的となると、どうしても断らずを得ません。

なぜなら、墓というものは、必ず存在するとは限らないからです。
長い間お参りをする人がいない場合、無縁墓として処分されている可能性もあります。
絶対に存在するかどうか分からないものを報酬を得て探すことはリスクが大き過ぎるのです。


過去帳閲覧のお礼

過去帳の閲覧に際し、ご住職にどのくらいのお礼をすれば良いのかという質問をしばしば頂きます。過去帳の閲覧に限らず、ご住職へのお礼というのは、聞くに聞けないなかなかデリケートなものですね。

私も初めの頃は相場(?)が分からずに困っていましたが、何人かのご住職にお聞きした結果、現在ではお布施として1万円と菓子箱を持参するようにしています。

過去帳というのは、家ごとに綴られたものではないため、同時に他家の情報も見れてしまいます。このために、閲覧を許可されないご住職もおられますが、この場合はご住職に寺の過去帳からピックアップして頂き、自家の過去帳を作成して頂くようにお願いすることも選択肢のひとつです。

この場合、ご住職に作業のお手間をお掛けしますので、上記のような金額というわけには参りません。この際のお礼もなかなか難しいものですが、3〜5万円というのがひとつの目安かと思います。(あくまでも目安です。菩提寺との普段のお付き合いの程度によっても変わってきます。)

まぁ、お金のことはあまり書きたくないのですが、結構これでお悩みの方がおられるようですので、参考にして頂ければと思います。


郷土誌を読むに当たって

家系調査を行うに当たって、郷土誌を読むことは非常に重要で、文献調査の第一歩でもあります。

〜町史(誌)、〜村史(誌)といった小さな単位の郷土誌の方が、より細かな記述が多く、家系調査に有益であることは既に記述した通りです。

この郷土誌を読む際には、記述されている内容を読み込むことが大事なことは言うまでもありませんが、同じように重要なことは、本文中に収録されている各種史料やその郷土誌を編纂する際に参考にされた文献をチェックすることです。

郷土誌編纂の際、その地域の旧家に古くから伝わる古文書類を調べて収録しているものです。この中には、宗門人別帳や検地帳などの家系調査に有益な古文書も多いですし、そのような古文書が現在どこにあるかという情報を持っているものです。

また、編纂の際に参考にした文献については、多くの郷土誌の場合、巻末に「参考文献」といったタイトルで一覧が記載されています。

以上のような古文書・参考文献類は、とても重要な情報源となりますので、郷土誌を読む際に注意してみてください。



家紋調査の方法  

最近、家紋を調べて欲しいという相談をよく受けます。
自分の家の家紋が分からない?? ・・当初は、不思議に思っていたものですが、いろいろな方からの話を総合すると次のようですね。
 
明治になって、人々の移動が自由になってくると、主に次男以下の人達は仕事を得るために郷里を離れ、都会に出てその地に分家することも多くなった。そこからさらに分家が発生するなどし、数代を経る内に、次第に郷里の本家とも疎遠になって、自分のルーツが分からなくなってししまった。

”自分の家の家紋が分からない”ということも、このような事情から起こってくるようです。

家紋というのも、普段は必要がないものですし、意識もしない場合も多いものですが・・・

●新たに自分の代(あるいは親の代)からの墓を建てる。
●男の子ができ、七五三の着物を作る。また、鯉のぼりを作る。
●新たに着物を仕立てる。

などのような場合になると、「はたして自分の家の家紋ってなんだったのだろう?」と疑問に思い、弊社に相談されるようです。

では、どうやって調べたらいいのでしょうか?

自分の家に伝わってきた本来の家紋を調べるには、上述の”忘れ去られた過程”を遡ればいいわけです。

まず、初めて郷里を離れたご先祖がどこの出身だったのかを除籍謄本を取り寄せて調べます。

父→祖父→曾祖父→高祖父と謄本を取り寄せていく内に、「○○県△△郡××村〜〜番地から転籍」というような文言があることに気づくはずです。そこに書かれた本籍地が、ご先祖が出てこられた土地ということになります。(転籍を繰り返している場合は、最も古い本籍地です)

次に、そこで分かった本籍地が現在の何市の何番地になるのかを調べます。当地の役場で教えてくれる場合もありますし、ネットで分かる場合もあります。

現在の番地が分かった段階で、現地に出かけます。
図書館にある現地の電話帳やゼンリン地図で、同番地に同姓の家があることが分かれば、そこに行って聞くのが一番の近道でしょう。

遠い親戚になるとはいえ、聞きに行くのは億劫だという場合や同じ番地に既に同姓の家がないという場合は、ゼンリン地図で周辺の寺院や共同墓地などを探し、同姓の墓を探します。墓にはたいていの場合、家紋が彫ってありますので、それで分かるはずです。

ただ、同じ地域の同姓の家であっても、違う家紋を使っていることもあります。こうなると少し厄介ですね。

この場合は、そこの土地を管轄している法務局に行って、旧土地台帳を調べてみるのもよいでしょう。旧土地台帳というのは、明治20年頃から作成された、土地の所有者などの情報を記録したものです。

これを見ると、明治20年頃のその土地の所有者名が分かりますので、その欄に同姓の方の名前を見つけることでしょう。通常は、そこに書かれている方が、当時の本家の当主ということになります。

また、その旧土地台帳には、その後の所有者の移動も記録されています。他家に所有権が移っていなければ、本家のその後の当主の名前が続いているはずですので、それらを書きとめておきます。

そこで、それらの方々の名前が彫られている墓を探せば、本家の家紋が分かるということになります。当然、それが貴家の家紋です。